離婚が決まったとき、私はなけなしの貯金を全部、彼に渡しました。
「それで、一人でアパートでもなんでも借りてください、だから出ていって」
三十代、貯金ゼロ、娘二人、買ったばかりの家のローン。
──それでも、あの日の私は、少し晴れやかだったんです。
この記事は、離婚を迷っている人、離婚した後の生活が不安な人に向けて書きます。
私は経理という仕事に人生を立て直してもらいました。その二十数年の話です。長いですが、どこかにあなたと同じ場面があると思います。
失敗から始まった経理
新卒で正社員として入社したのは航空会社系の会社で、最初の配属は旅行カウンターでした。
その一年目に大きなミスをしました。大事なお客様のフライトを間違えてキャンセルしてしまい、お客様が空港に着いてから発覚するという、笑えない規模のミスです。営業の先輩に怒鳴られ、トイレで泣きました。
二年目、経理に異動になりました。当時の私は「あのミスのせいで飛ばされた」と思っていました。
ところが、これが天職だったんです。
お客様と直接向き合う仕事ではないこと。毎日、数字を合わせれば仕事が「終わる」こと。月次決算にも、年度決算にも、税務申告にも、必ず「終わり」があること。そして何より、貸借対照表は必ず一致する。借方と貸方がぴたりと合う。
人生で初めて、「合う」ことの気持ちよさを知りました。
専業主婦から、派遣から、もう一度
結婚と出産で一度仕事を離れました。横浜で暮らす専業主婦でした。
このまま夫と、子供と家族のために生きる生活が続くと思っていました。
働きに出ようと決めたきっかけは、夫の浮気です。一度目の。
あのとき痛感したのは、悲しさよりも、専業主婦であることの弱さでした。社会的な弱さです。収入のない私は、もしものとき親権すら取れないかもしれない──それが何より怖かったのです。
だから私は、仕事に復帰することを条件によりを戻しました。
ただ、働こうにも、横浜の保育園はまったく空いていませんでした。
最初は彼の実家の近くへ引っ越して、彼のご両親に手伝ってもらえないかと相談しましたが、断られました。
そのとき、私の両親が言ってくれたんです。「実家の近くに引っ越してくるなら、子供のことも仕事のことも支えるよ」と。
それで、みんなで田舎にある私の実家近くへ引っ越しました。
そこで就職活動を始めたものの、2歳と0歳の子供がいて、都心まで電車で1時間半。
かなり苦戦を強いられ、書類で断られ、あからさまに子持ちは雇えないと言われたこともあります。
なので正社員は諦めようやく決まった復帰先は、家から車で十五分の、欧州系自動車部品メーカーの工場。雇用形態は派遣社員。実家の近くだけれど初めて聞いた会社名。
経理の実務経験だけを頼りに、もう一度、数字の世界に戻りました。
幸運にも、私の勤務することになった職場には日本の本社機能がありました。日本の多くの拠点の事業部の経理を、都内ではなく、田舎の工場の二階の一室で、皆で取り組んでいました。
周りには猿も出ます。近くには、夏に蛍が見える沼もあります。
そんな場所で、相手は欧州の本社や世界中の拠点とのやりとり、そして多くの外国人社員。メールは全て英語。
まるで世界が切り取られて、そこに存在している不思議。ここは日本なんだろうか?外資系の仕事は都会でないとできないと思っていたことが、思い込みだったと知りました。
働きぶりを見てもらえたのか、やがて正社員に登用されました。外国人の上司は、派遣社員という区別も、女だからも、子供がいるからも何もなく、ただただ私という社会人を評価してくれました。本当に幸運でした。そして家をローンで買いました。
私たち家族は「これから」という時でした。
決断──母の電話
原因はシンプルです。彼の浮気。三度目の。
結婚十年目、娘たちは小学一年生と幼稚園でした。
三度目が分かったとき、心が壊れた、というより──「もういいや」と。
それまで何度もやり直そうとしていた全てが、もうどうでも良くなりました。
それでも、決断までは苦しみました。一番苦しかったのはお金のことではありません。
私は、彼がいなくても生きていける。それは確実に分かっていました。
でも、私のこの決断が娘たちに「父親がいない人生」を与えてしまう。そんなことをしていいのか、私が。その恐怖が一番重かったです。
そんなとき母から電話がありました。
「あなたが幸せでないと、子供たちも幸せになれないんだよ。決断していいんだよ」
私はそのとき初めて親の前で泣きました。
奪わない、と決めた
先に、あの恐怖の「その後」を書いておきます。
離婚しても、娘たちと父親の関係は終わらせませんでした。子供たちが小さい頃は、月に一度、父親のところへ遊びに行かせていました。子供と父親の関係は切り離して。離婚の理由も一切話さない。話したのは娘たちが大人になってからです。
離婚は夫婦を終わらせるものでしたが、親子を終わらせるものではありませんでした。
いま同じ恐怖で動けなくなっている方に、これだけは伝えたいです。
暗闇と、爽快感と
貯金を全部渡して残高はゼロになり、生活は一気に苦しくなりました。
でも、不思議と心はすっきりと晴れ晴れとしていたんです。
もう裏切られない。もう嘘をつかれない。守るものは、この子たちとこの家、これだけ。そう思えたことが、意外なほど私を強くしました。お金がないことは、正直あまり苦しくなかった。本当に辛かったのは離婚前──裏切られている、嘘をつかれている、あの毎日のほうでした。
それに、毎月給与が入ってくる。「何とかなるかな」と思えました。派遣から正社員になっていて本当によかったと思った瞬間です。
そしてここでもやはり、困った時は両親を頼りました。
保育園の迎え、夕飯、お風呂まで。仕事が終わったら実家に迎えに行き、私も夕飯をいただいて、そのまま娘たちを連れて帰る。帰宅してからも山ほど家事があります。洗濯、片付け、宿題の確認。
でも、夕飯もお風呂も済んでいるので、子供たちと話す時間はたくさん持てました。
母親としてどうなんだ?なんて、思いませんでした。皆で育てよう、そのために家族で引っ越してきたんですから。
スキルの階段
そこからは目の前の実務を一段ずつ登りました。
最初は買掛金。大企業でしたので毎月何十億というお金が動きます。銀行のプロセス、消込、照合。次に売掛金へ移り、海外の売掛金、輸出入、インコタームズ。固定資産の管理をして、償却資産税の仕組みを実地で覚える。自動車業界特有の、かんばん方式のEDIシステムで大量の債権が自動照合されていく仕組みにも携わりました。
中学英語と、本国から来た精鋭たち
あるとき、SAP(基幹システム)のVersion Upという大きなプロジェクトが始まりました。本国から精鋭のコンサルタントたちが大勢やって来て、外国人と日本人の混成チームです。
私は帰国子女でもなければ、英語が得意だったわけでもありません。中学校の英語で、なんとかしました。社内の外国人とできる限り話すようにして、少しずつ慣らして。
本音を言えば、英語でのコミュニケーションはずっと嫌でした。今でも嫌です。できれば日本語で話したい。でも、「できるように頑張る」ことはできる。それで、私はこのプロジェクトにFI(会計Module)のキーユーザーとして参加し、システムの中身を深く知ることができました。
十数社の月次決算と、午前様と、実家の親
その頃の私は、複数の事業部の経理をまとめて見ていました。多いときは十数社分。それを月初の第二稼働日までに全部締める。
月末までに銀行を締めて、翌稼働日には売上、売掛金と順番に締めていく。決算仕訳を入れて本社のレポーティングパッケージの作成。TAXの計算。毎月毎月、月末月初は深夜まで残業が続きました。
娘たちはどうしていたか。実家の親に来てもらうか、実家に泊まらせていました。
「ひとりで頑張った」なんて、言うつもりはありません。私は親を頼り倒して乗り切りました。だからあなたも、頼れるものは全部頼っていいんです。
世界に選ばれた日
プロジェクトが成功したあと、私はマネージャーになりました。振り返ると、ここが大きな転換点でした。
海外出張が増え、自分のキャパシティが広がっていくのが分かりました。評価されていることが、目に見えて分かるようになりましたが、正直、なぜこんなに評価されるのか自分でも分かりませんでした。
そんな中で、グループ全世界の経理担当者の中から選ばれる社内表彰をいただいたことがあります。
旅行カウンターで大きなミスをした新入社員が、離婚して貯金ゼロになったシングルマザーが、世界から選ばれたんです。
今度は私が、扉を開ける番
その後、会社が企業買収をして、私は財務部長として買収先の経理の巻き取り(PMI)と、大きなチームを任されました。
新しい拠点は家から百キロ先。一年かけて業務を移行させました。そのとき、私はチームの派遣社員を、全員、正社員にして送り出しました。
派遣から正社員になったことに人生を救われた私が、今度は扉を開ける側に回った──そのことに気づいたのは、ずっと後になってからです。
百キロはさすがに通えません。勤続十二年。やり切ったと思えたので、次のステップに進みました。東京の外資系医療機器メーカーの経理マネージャーへ。二年で卒業しましたが、その会社のレポーティング業務は、いまも業務委託で任せてもらっています。会社を辞めてもスキルと信頼は残せました。
いまは日本の会社で、経理を軸にバックオフィス全般を統括しています。五十二歳。頭を怠けさせないために、あえて難しい外資の仕事を副業で続けながら。
年収のことも書いておきます。派遣で復帰したときは400万円ほどでした。いまは当時の5倍ほどになりました。
父の答え合わせ
実家の両親は、あれからずっと私と娘たちを支え続けてくれました。熱を出した日も、私の帰りが深夜になる月末も、嫌な顔ひとつせず。私以上に私の子供たちをかわいがってくれたと思います。
父は五年前に亡くなりました。
孫娘二人について最後にこう言っていました。「どこに出しても恥ずかしくない、良い子に育った」と。
あの日、電話で母がくれた言葉で私は決断しました。その決断が間違っていなかったことは、父が確かめてくれました。
最後に──あの言葉を、あなたに
最後に、あのころの私と同じ場所に立っているあなたへ、私が言えることを置いていきます。
一人で全部やろうと思わないでください。無理です。私は親を頼り倒しました。頼れる人がいるなら全面的に頼っていい。それは弱さではなく作戦です。
生活を変えることを恐れないでください。私は住む街を変えました。
それでも──だからこそ、その先の未来は作れました。
そして、「子供のために」と思いすぎないでください。子供はあなたとは別の人格です。子供の人生は子供が切り開きます。私は娘たちの力を信じました。
父が最後に「良い子に育った」と言ってくれた、あの二人の力を。
「あなたが幸せでないと、子供たちも幸せになれないんだよ!」
あの日母が電話越しにくれた言葉を、今度は私があなたに渡します。あなたの幸せを願うことは、わがままではありません。
もうひとつの扉は必ずあります。私がそうだったように。
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